旧都祁村の南西端、小山の木立を背に建つ大和棟の茅葺き民家。
新しく建て替えられたのか?、建物自体もしっかりしていて古さを感じさせない。
割木(薪)を一杯に積んだ大きな作業小屋、その奥に傾き屋根の主屋、両脇には離れ屋と蔵??
随分と少くなった茅葺き民家・・・それでも大和高原地域ではステータスを表すシンボルとしてまだまだ健在。
撮影2013.6.8
旧都祁村の南西端、小山の木立を背に建つ大和棟の茅葺き民家。
新しく建て替えられたのか?、建物自体もしっかりしていて古さを感じさせない。
割木(薪)を一杯に積んだ大きな作業小屋、その奥に傾き屋根の主屋、両脇には離れ屋と蔵??
随分と少くなった茅葺き民家・・・それでも大和高原地域ではステータスを表すシンボルとしてまだまだ健在。
撮影2013.6.8
国定史跡、小治田朝臣安万侶(おはりだのあそんやすまろ)の墓地を背に端正な茅葺き民家がある。
都祁水分神社(みくまりじんじゃ)の杜の直ぐ南側、神社の鎮座する小山斜面に墓地があり、それを隠すかの様にこの端正な大和棟がある。
正面は道路から屋敷まで空き地?の中に進入路を設け、低い腰板塀を巡らせ内に庭木を植え込んでいる。
茅葺き屋根は葺き替えて間もなく、スッキリ端正な姿をみせている。
主屋の左手には離れ屋?と、その奥に続く白壁土塀・・・
片袖落ち棟、一方は鋭角の大きな切妻が心地良い。
丸で注文通りの絵の様な佇まいですが・・・・・、ここでも茅葺き屋根は正面表部だけ、裏側はやっぱりトタン懸けになって居ました。
屋敷から田圃を挟んだ向こう側にも覆い懸けされた長閑な茅葺き屋根が見える。
撮影2013.6.8
名阪国道針ICより一つ東寄りの小倉ICの近く、小倉集落に残って居る茅葺き民家。
この辺りには石仏行脚で何度も足を運んで居ますが、集落をかすめて通る県道からは全く見えない集落の中程に屋根を葺き替えたばかりの茅葺き民家が建って居る。
端正な佇まいを見せる茅葺き屋根は寄せ棟に、大きい箱棟を載せた見事な伊賀風茅葺き屋根。
中央奥に主屋、向かって左には白壁土蔵、右手に納屋を配し、主屋前面を広くかど庭に空け、一昔前の上級農家の佇まい。
箱棟の中央部には鳩瓦も載せられ、素晴らしい景観を見せて居る。
聴いた話に拠ると・・・・、この屋根を葺いた職人さんは伊勢神宮の屋根を葺いて居る職人さんだそうです。
そこはかとなく、品の良い茅葺き屋根に仕上がって居ると思えるのは、そのせいかも???
グーグルアースではこんなトタン懸け屋根や・・・・
こんな哀しい姿の屋根もみんな茅葺き屋根に見えてしまう・・・・。
まあグーグルアースの航空写真も10年以上前の物の様だからどうしょうもないけど。
撮影2013.5.31
先だっても茅葺き民家で紹介した「都祁南ノ庄」の歓楽寺には多くの石造物が残されており、中でも覆い堂内の三体並んだ地蔵石仏に目が奪われる。
高野山真言宗「歓楽寺」は南ノ庄集落の背後に有る小山の上にある鄙びた佇まいを良く残す山寺、創建年代や由緒については不明ですが戦国時代に焼き討ちに遭った様です。
覆い屋の三体の地蔵石仏・・・・、中でも一番に目を惹くのは中央の地蔵菩薩立像。
板石状の高さ約1mの花崗岩に覆輪蓮華坐に立つ像高約80cmの定形地蔵を半肉彫りで刻み出して居る。
童顔で理知的な眼差し、すらっとした体躯もよく整って居るが・・惜しくも胸元で上下に断裂。
頭部には浅く円頭光を刻み出し、像の右には鎌倉時代後期、元亨二年(1332)の銘が有り、都祁地域では最も古く最も美しい石仏だとされて居る。
向かって左側の室町様式をよく表した地蔵石仏、ちょっとずんぐりの四等身、尊顔は生憎のほぼ、のっぺらぼう・・・。
右側の一体も同様に室町様式の定形地蔵立像です。
撮影2012.2.22
前回の続き、都祁「歓楽寺」覆い屋外に並べられた石仏さん達。
境内の右脇、地蔵覆い屋の手前にたくさんの石造物が並べられて居ます。
その内、こちらは笑みの溢れる地蔵石仏。
頂部を欠損した舟形光背、室町後期様式の蓮座に立つ中型定形地蔵菩薩。
頭部には線彫りの円頭光が有ります。
ここにも、この都祁様式とでも言える様な、拙いながらも様式化された青面金剛像。
足元の三猿のデザイン化は卓抜、グッドデザイン賞ものです。
撮影2012.2.22
都祁、藺生集落の南外れ、鄙びた田舎寺の「青龍寺」に残された石仏達。
がらんとした境内に茅葺き屋根の小ぢんまりした本堂が郷愁を誘う青龍寺は高野山真言宗に属し、藺生城主藤井氏の菩提寺であったと言われて居る。
境内への参道脇、左手空き地に、覆い屋を掛けた地蔵堂とその脇に一回り小さい庚申堂が建って居る。
地蔵堂中央には、舟形自然石に刻まれた定印を組み蓮座に座する阿弥陀坐像。
蓮華座は旧い様式を伝えており、南北朝初頭、建武(1334〜1337)の銘があると言われて居ますが詳細は解りません。
もろい花崗岩質の石材のためかなり風化が進んで居ます。
左隣に立つ舟形光背、中型の定形地蔵立像・・・
洗練された、すらっとした体躯ですが・・、全体の様式から室町後期の造立??
傍ら、更新堂の青面金剛像・・・・都祁様式そのままで宝暦の年号を持って居る。
境内傍らにもすっかり苔生した小石仏や石造物の残欠がならんでいた。
なんにも増して周りの景観の素晴らしい田舎寺です。
撮影2012.2.22
旧都祁村針、観音寺境内脇の寺僧墓地片隅に並べられた石仏さん達。
同じ境内に有る十三重石塔は以前に紹介した事があるのでそちらも参考に・・・
墓地奥に一列に並べられたうち最も目を惹くのが、この十一面観音石仏。
総高1m足らずの舟形光背を持ち、蓮台に立つ右手錫杖の長谷寺型十一面観音石仏。
珍らしい十一面観音石仏ですが・・・、形に嵌められたような力の無い像容で江戸時代中期の寛延三年(1750)の造立。
江戸期の石仏さんにはどうしてもパワーが感じられません。
一方こちらは旧都祁村に有って、あの都祁型を踏襲してない青面金剛石仏。
同じ旧都祁村であっても、全く共有してない部分も有るのだなあ・・・
傍らに有った地蔵石仏、室町期の物の様に見えますが・・・
苔が酷くて像容も定かでは有りません。
撮影2012.4.14
遅咲きの桜の巨木が美しい旧都祁村深川墓地入口に居並ぶ石仏さん達。
新しい切石の基壇の上に小さな六体地蔵と三体の中型石仏を並べ立てて居る。
中型石仏のうち中央の一体のみが誰にも分かる像容の石仏・・・・、残りの二体は梵字が主体の石仏さん。
群を抜いて大きく、目だつ一体は細長い特徴的な蓮台に立つ阿弥陀如来立像
総高約140cmの舟形光背を負い、像高約90cm、光背頂部には阿弥陀種子のキリークが刻みこまれて居ます。
右手は肩先に、左手は裾上に下げ、所謂来迎印をしめす。
向かって右光背に大永二年(1522)の銘が確認され、室町後期の造立。
向かって右手、舟形の上部に五輪塔の「空風火水地」の梵字「キャ・カ・ラ・バ・ア」を刻み、下部方形の中にまるでこけしの様な阿弥陀と地蔵?を刻み出している。
向かって左には月輪にキリークを刻んだ阿弥陀如来梵字仏。
下部に方形枠の様な物が見えるが全く解りません。
撮影2012.4.14
特徴的で奇妙な像容を持ち、石仏ファンには知れ渡っている青面金剛石仏。
まるで肩から鎌首を持ち上げてでも居るかの様に、四肢が伸び出している様なユニークさ・・・
近鉄大阪線「榛原駅」から国道370号線を道成に西へ約1.5km、篠楽の信号を越え、集落への入口辻に庚申堂が建ち、中にこの何とも漫画チックにも思える青面金剛像が大切に祀られて居る。
総高約1m足らず、像高60cm、頭は丁髷、面長で全く憤怒相とは似ても似つかない顔つき・・・
以前に紹介した都祁型の青面金剛像もユニークだったが、此方もそれに輪を掛けた様に奇妙な像容。
江戸時代中期の享保十三(1728)の造立・・・・この自由闊達さが庶民信仰の庚申講を物語る一つなのかも。
撮影2008.3.2
宇賀市神社境内から道路を挟んで東側、宇賀志川左岸、今や廃道となった大木の下に有る庚申さん。
この大木の根元に板石で組み上げた龕を造り、中に脆い安山岩を巧み仔細に刻みだした庚申の青面金剛石仏を祀って居る。
その景観風情が何とも言えず田舎らしい。
今まで見て来た庚申さんとは明らかに違うタッチ・・・今までのはどちらかと言うと稚拙さが目立った漫画チック・・・、これはどちらかと言うと専門家が刻んだ劇画風??
緻密仔細な細工を施していますがイマイチ怖く有りません・・・・それでも足下の邪気は一人怖がって居る様ですが??
顔付きがまるで歯抜けババア、目は玉でも入れたように「目の玉」迄刻みこんでいます。
子供の頃にこの前に立たされるときっと小便をチビリそうなほど怖そうだけど・・・この歳にもなると却って滑稽。
庚申さんおそるべし・・・なんでも有りのなんでも来いなんですね??。
ここ宇賀志あたりは神武天皇東征の道筋だと言われ、「宇賀志」いう奇妙な地名もその故事に因んだものの様です。
撮影2011.7.16
菟田野芳野川(うたのほうのかわ)沿いに軒を連ねる上芳野、辻の地蔵堂脇にある庚申の青面金剛石仏。
菟田野の中心地「古市場」から東へ直ぐの新松井橋を芳野川沿いに左折、点々と建ち並ぶ下芳野の東詰め辺り・・・・、(もうこのあたりの地名は上芳野らしいが)新道と旧道の合流地点に背の低い地蔵堂が有る。
その脇の斜面に切石を組み上げ石龕を造り、庚申主尊の青面金剛石仏を祀って居る。
ここの青面金剛はまた一味も二味も違っている。
髪を逆立てて居るのですが、表現が拙く丸で地蔵の様な僧形・・六臂の内二肢は腰から直に手首が出ています。
全体的にはそれなりに見えますが奇妙な青面金剛像です。
そういえば見事に整った庚申さんなんて見たこともないような??
撮影2010.8.28
三重県名張、赤目近くの旧い集落で見掛けた庚申堂の青面金剛石仏。
ここは奈良県旧室生村と境を接する安部田の坂ノ下集落・・・、古より今日まで続く奈良東大寺二月堂お水取りの「松明調進」の街道筋。
坂ノ下の公民館横には廃寺となった??お堂と、その脇には小さな庚申堂。
稚拙な像容ながら事細かにしっかり儀軌に適った青面金剛像を刻み出しています。
鶏、三猿、踏みつけられた邪気、足元両側には二童子を配し、四臂の持ち物、頂部の日月も怠りないが・・・、どう見ても顔がちょっとお粗末。
それが庚申、民間信仰のローカル色豊かなところかも??、因に総高約1m強、花崗岩の中肉彫りで中々立派なものでした。
撮影2012.1.7
先日紹介の坂ノ下集落入口、国道165号線交差点でまるで信号待ちをしているかの様に立ち尽くす地蔵石仏。
集落入口から見るこの道が、近く極楽寺から奈良東大寺迄続く「松明調進の道」。
地蔵石仏は国道に対面、宇陀川越しに「極楽寺」をしっかり見つめて」たっている様にも・・・・。
少しオーバーハングした細い舟形光背、凡そ等身大の像高を持つ中肉彫りの定形地蔵。
脇には真新しい「松明調進の道」と書かれた立派な道標。
光背には大きく「右ならみち」と刻まれ、旧「初瀬街道」の道しるべとして造立された地蔵さん。
全体の像容、印象から江戸時代中期の造立だと思われます。
撮影2012.1.7
矢川集落の地蔵堂に祀られた地蔵石仏。
前回紹介の阪ノ下から宇陀川に掛かる細い橋を渡り、道なりに進むと矢川の集落、集落の入口辺り、大きな溜池の畔りに格好の良い百日紅の大木が在り、その根元に田舎風情の小さな地蔵堂がある。
地蔵は約1mの舟形光背を持ち、頂部に地蔵の種子の「カ」刻んでいる。
像高凡そ80cm弱、大きい蓮座の上に立つ定形地蔵・・・銘は不明ながら、江戸前中期の造立??
こんな田舎にしては手馴れた石工の作と見え、中々の像容・・・・、その頃のこの村の有り様が分かる様な気がします。
撮影2012.1.7
名張市上三谷、集落入口付近の広場に安置された磨崖の石仏さん。
前回紹介の矢川地蔵の前の道を五分も道なりに奥に詰めると左手斜面上に集落の家並が見える。
新道造成で邪魔に成ったのか、本来の岩面から切り離され、この地に安置、祀られて居る様です。
高さ1.5m、三角おにぎり形に切り離された岩面の上部中央に身の丈40cm程の線彫り地蔵菩薩坐像が刻まれています。
頭上に円頭光をを戴き、写真で見る限り錫杖の持たない矢田寺型の結跏趺坐する地蔵菩薩の様です。
稚拙な線彫り、良く言えばローカル色豊かで素朴な石仏・・・・この道は室生寺四大門の内、北の大門「丈六寺」から室生竜口を越え室生寺へと至る室生古道の一つだったのだろう??
撮影2012.1.7
ちょっと今までに見たことの無い、胸に四角い穴を穿たれた地蔵石仏。
前回に同じく名張市上三谷、前回の場所より少し奥に詰めた白山神社境内・・・・・、
片隅の小さな地蔵堂に祀られています。
身の丈70〜80cmの中型定形地蔵立像ですが・・・
全体を舟形に整形した花崗岩に凡そ5cm程の枠を残して浅く彫り沈め、中肉彫りの定形地蔵菩薩立像を刻み出して居る。
面相は写実的で落ち着き、端正な像容・・・、足には近江様式の地蔵の様に木靴を履いています。
胸の楔状の穴は納経孔の蓋が外れたものと思われ、保存も良く大切に守られて来た石仏だと云う事が解ります。
舟形枠下部の線彫り蓮座や全体像から室町期を下らない時期の造立だろうと思われる??
撮影2012.4.8
前述、白山神社前の道を少し奥に詰めると集落の旧い墓地が在り、その入口付近には一石六体地蔵が置かれて居る。
最近整備されたのだろう?、コンクリートブロックの無骨な基礎と囲いの中に可愛しを敷き詰め、中央に一石六体地蔵、それを囲む様に小石仏や五輪塔の残欠などが置かれて居る。
一石六体地蔵は板石状自然石の頂部を半円弧状に整形、上下を大きく空けた左右一杯の枠付きの方形に彫り沈め、中によこ一列の六体地蔵を刻み出して居る。
頂部円弧部には天涯を思わす連続蕨手紋?、中央の小さな彫り込み内にも小さな石仏
六体地蔵はローカル色豊かな稚拙な像容、いかにも野の仏然とした素朴な味わいがある。
江戸中期頃の造立だろうか・・・・。
斜墓地内に並べられた板碑や墓石の列にも・・・
六字名号と余にもデフォルメされた地蔵が並列する山形板碑・・・・頂部山形には阿弥陀三尊の種子。
他にも地蔵や、五輪と地蔵の板碑などが無造作に寝転がって居たり・・・・
こんな素朴な石仏が地中から半身のぞかせて居たりした。
撮影2012..4.8
近鉄大阪線赤目口駅近くの丈六寺にある一石六体地蔵石仏。
寺伝に拠ると、大宝二年(702)に妙光比丘により開創され、室生寺が宝亀年間(770〜781年)に開かれて以降、室生寺への四大門が設置され、その内の北門にあたる丈六寺は、平安時代に七堂伽藍を備え、室町時代まで大いに栄え続いたといわれています。
現在「真言宗東寺派」を名乗る古刹丈六寺にも、この辺りでは当たり前の様に見られる一石六体地蔵が有る。
頂部が弧を描いた様な板石に唐破風様の枠を付け、本堂脇の椿の根元に安置されている。
枠内に刻み出された六体地蔵は像高約35cm、こけしを一列に並べた様な素朴さ・・・・、名古刹でも庶民信仰のこんな石仏を見られるのが嬉しい。
一方、丈六寺と云えば、奈良時代の高僧「良弁」の供養塔と伝えられる五輪塔が有る事で知られて居る
元々、良弁の供養塔としては年代もかけ離れすぎては居るものの、名張市の文化財指定で鎌倉時代後期 正応四年(1291)年の銘を持つ。
高さ234cm、火・水輪部に欠損はあるものの、この地域では珍らしい優品で有る事に違い無い。
撮影2012.1.7
前回紹介の丈六寺より南東へ約2km足らず、壇集落の南外れ、溜池脇の古い墓地に有る一石六体地蔵。
旧い墓地の習俗を色濃く残し、切石の棺台の向うに無縁塔・・・・、
その脇には一石六地蔵と梵字板碑。
六地蔵脇にはこの地域では良く見かける手作りの六本ローソク立て、もう転がっていた雨傘。
埋め墓の名残を残した習俗で、大和高原やこの辺りでは見慣れた景観です。
横長の自然石に横長方形を薄く彫り沈め中に六体地蔵を薄肉で刻み出す。
ここでも地衣類の繁殖がひどく像容も解らない程。
こんな素朴な六体地蔵は結構好みなのですが・・・・、どうして大和高原地域やこの辺りに集中しているのだろうか??
撮影2012.1.7
この地域の墓地では何処に行っても、六体地蔵は一石とお決まりの様に置かれて居る。
前回の壇墓地から見えるほどの距離、農道を東へ突き抜けた小さな丘の斜面に星川集落の墓地が在り・・
その入口辺りに五輪塔の残欠多数と共に形の良い一石六体地蔵が横一列に居並ぶ。
星川墓地の六体地蔵は絵馬型に整えた板石に、少し窮屈そうな地蔵を横一列に並べて居る。
像容は少し手馴れて、円頭光も負い江戸期特有のデフォルメされた蓮座の上に立つ。
蓮座の下部には多行の銘が見えるが判読不能です。
これも風情の一つでしょうが??やっぱり野の仏、地衣類がしがみ付いて居ます。
撮影2012.1.7